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69.神田の大火災A

 

 順天中学校ではこの火災によって校舎が全焼し、更に隣の松見校長邸も焼失してしまった。他校でも本校と同様に全焼した学校も多かった。

 順天は神田に移転以来既に四十年が経過していたが、直接校舎を全焼するような大きな被害を受けたのは、幸か不幸か今回の神田の大火災が始めてであった。

 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるが、近代国家として歩み出した明治・大正となっても火事は尽きなかった。中でも神田と言えば火事を連想させる程、その災害は多かったと言われる。

 因みに、火事と言えば江戸(東京)だけのものではなく、江戸時代後期の大阪に於いても、大きな火災が三度も有った。享保九年(一七二四)と天保八年(一八三七)と文久三年(一八六三)の三つであって、これは浪華の「三大火」と呼ばれるものである。

 順天堂塾と関係の深いものは天保の大火だけであり、一番ひどかった享保の大火のときは開塾しておらず、文久の大火でも順天堂塾は被害を免れている。神田の大火災はそれ以来のことであった。しかし当時の住民による復興に対する力は大したもので、神田の大火災の後十ヶ月経過した時点で、既に焼失した各町内は以前と比較しても、大火災以前と変わらない状態まで再興を果たした。

 この神田の大火は本校にとって、小教室が分散し、校長邸が同一敷地内に有り、私塾の様な形態からの脱皮を計る意味では、有効に働いた事は否定できない。しかし建築物や設備等の学校財産の喪失と、卒業生数の極端な減少と言う代償を支払う事になったのである。前年度までの過去五年間の平均卒業生数は八十八名であったが、大火の有った大正二年度の卒業生数は四十八名と激減している。対前年卒業生数の約二分の一となってしまった。この事が学校の財政を相当圧迫した事は容易に想像できる。翌大正三年度は百四名もの卒業生を出しているのであるから、被害は相当なものであった。恐らく神田の下宿屋が焼失してしまった事によって、苦学生は更に苦しい状態に追い込まれ、志半ばにして学問を諦めなければならなかった者もいたであろう。

 後に立派な校舎が完成するが、神田の大火は明治の面影を根本から消し去ってしまった。

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