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67.明治から大正へ

 

 日本に於ける明治維新以後の公教育は、新政府が文部省を設置して明治五年に学制を発布した事に始まる。やがて、初等教育機関は約三年で当初の設置目標の半数近くを達成していた。

 これは23号で述べた様に江戸時代からの寺子屋等の庶民の教育機関が、全国に広く普及していたことによるもので、これら私塾の存在を抜きに日本の教育は語れない。やがて明治二十年代に入り、初等教育機関が充実すると、いよいよ中等教育機関の設立が行われ、同三十年代になってその数は急増して行った。

 教育制度の確立に伴って、明治二十年代に於ける順天求合社の発展は、教員免許証の取得や上級学校進学などの明確な目的を達成させることで学校が発展していた。それは決して伝統的な数学、測量学、天文学によるものではなかった。大阪時代の順天堂塾は、資格よりも学問そのものを研究し、それを楽しむと言った様な風潮であったが、明治の教育改革はそれを許さなかった。

 明治三、四十年代を見ると、明治三十三年の義務教育は尋常小学校四年、年齢十歳迄であって、尋常小学校を卒業すると高等小学校・実業学校・補習学校等への進学が選択出来た。その後、明治四十年には、義務教育を尋常小学校六年、十二歳までに延長した。その背景には、義務教育の就学率上昇が上げられる。就学率が九十%に達したのは男子が明治三十三年、女子は明治三十七年であった。更に明治四十二年には男女合わせて九十八%が小学校に就学しており、この様な就学率の高さは、他国にその例を見ないものであった。

 初等教育機関の充実は次に中等教育機関の充実に繋がり、明治の終りから大正にかけて、多くの中等教育機関が設立されていった。本学園の尋常中学順天求合社の設立は、49号で述べた通り東京の私立中学として第九番目と早いものの、充実していったのは将にその様な時期と一致する。

 東京に順天堂塾を拶転させ四十年が経過した。塾は既に学校制度に組み込まれ、中学校を主体として運営されていた。創立者福田埋軒から三代校長松見文平の時代で激動の明治期を終了した。

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