66.明治天皇ご崩御
明治四十年になると、順天中学校はいよいよ学校としての充実期を迎えた。生徒数は順天中学が三百五十名前後、順天求合社は三、四十名と、明治二十年代と比較してかなり減少しているが、その分、教育内容の確立と施設の充実を計った。 大正三年に出された「全国学校沿革史」に順天中学校の事が記載されているので、明治四十年頃の記述を引用する。 「明治四十四年成績優良と認められ、他の私立学校に先ち畏くも、明治天皇御真影下賜の恩命に接するの光栄を有し…」 明治四十四年十二月二十八日午前九時、府庁に於いて、順天中学校を先頭に、私立東洋高等女学校、私立早稲田中学校、私立日本橋高等女学校の中学校二校、女学校二校の合計四校は、天皇・皇后両陛下の御真影を戴いた。また、大正期に於いては大正四年に大正天皇御真影を、昭和に入ってからは昭和三年に昭和天皇の御真影を、それぞれ頂戴したのであった。戦後の教育では、この様な価値観は存在しなくなっているものの、当時としては極めて重要な事であった。 順天中学校が御真影を頂戴してから約七ヶ月後の明治四十五年七月三十日、明治天皇は崩御された。同年の大正元年九月十三日が御大葬の日となった。時代は既に大正となり、明治を振り返りながら御大葬の奉送が実施された。順天中学校も他の私立学校と同じく、二重橋にて奉送に参加した。 明治初期に於いては、寺子屋的な学校が雨後の筍の如く開塾し、又教育制度が確立すると共に消えていった。この奉送に参加した多くの私立学校も、その前身は私塾であり、本校と同様に学校制度にうまく迎合し、ようやくここまで発展させてきたのである。皆、学校の歴史とともに明治を語らなければならない学校であり、時代の流れに一つの節目を迎えたのであった。 |
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