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88.まとめB

本学園の創立は、天保五年(一八三四) 八月二十六日大阪の南本町にて、福田理軒が十九歳の時に数学・測量・天文学の塾を開いたことによる。

 当時の大阪は、地の利を得た日本最大の商業都市であり、その資力と環境を基に多数の私設の初等教育機関である珠算塾が誕生した。同時に高度な数学(和算)研究も行われ、そこでは学問を楽しむという風土があり、日本で数学が最も普及した土地であった。

本学園の前身である順天堂塾や順天求合社の開塾も、この様な時代を背景としている。

現在「陰陽師」が世間で盛んに取り上げられているが、陰陽道でも有名な京都の土御門家、その塾である斉政館でも福田理軒は天文暦学の教授として召抱えられている。当時の土御門家は幕府天文方と並んで暦の作製に大きな力を持っていた。明治維新後は暦学や測量学の実力によって、今度は明治新政府に召抱えられ、この事が東京に塾を移転する直接のきっかけとなった。

明治五年の学制発布によって「国民皆学」の基本方針が決定され、瞬く間に全国に初等教育が普及した。これ程短期間に教育制度が確立したのは、世界でも例の無いことである。しかし、この教育普及の原動力となったのは、幕末に全国で自然発生的に設立されていった私設の「寺小屋」の存在であり、本学園のルーツもそこにある。

そこでは、基本的な姿勢として「学問を楽しむ」という方針が貫かれていた。現在では教育制度が高度に発展し、マスコミの報道では「受験戦争」などと皮肉られているが、嫌いな者に無理やり学ばせているから戦争なのだろう。

私立学校には独自の「建学の精神」というものがあり、これが公立学校との決定的な違いである。本学園では、建学以来一貫してこの「学問を楽しむ」方針を採っている。楽しくなければ何事も大成しないからである。もっとも、苦しいことも沢山あるが、それを打ち消すだけの目的(願い)を各自が見つける事が肝要である。

 百六十年以上の歴史は、創立者の実力もさることながら、学問を楽しんで来たからこそ、世間に受け入れられて存続してきたのである。

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順天堂塾が創立された大阪の町の様子(算学速成)

当時の数学の問題と解答(筆算通書)

                                                                                                                                          
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