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86.まとめ@ 四十九年ぶりの野球部復活

 

 前号までは、学校の創立から太平洋戦争直前までを85回に渡って掲載しているが、このホームページを公開する時点で、題名の『順天160年史』の160年を10年近く超過しようとしている。従って、太平洋戦争から現在までの歴史については、また別の機会に掲載することとし、今回から3回に分けてまとめとしたい。

 順天学園の校舎は太平洋戦争によって消失した。やがて葛飾区青砥に移転したものの、戦後の混乱が私立学校離れに拍車をかけ、更に学制改革の影響も受けて、終戦直前には五百名いた生徒が、百名を割るまでに落ち込んでいた。

 これでは、到底学校の存続が不可能であったため、昭和二十八年八月に学校を北区王子本町の現在の地に、生徒三十九名と教員三名で移転した。当時、この地では弁護士の渡辺酉蔵(前理事長)によって東京ドレスメーカ女学院と王子英語学校が経営されており、先駆的同時通訳として有名な國弘正雄氏(現本学園教育顧問)なども教諭として名を連ねていた。その二校の内容と資力によって再出発を果たし、昭和三十七年からは女子校となっていたが、平成二年に共学校となった。

 共学校として再出発した初年度から男子入学生は百名を超え、直ぐに野球部が結成され、その年の夏の高校野球選手権大会に出場した。昭和十六年の大会予選出場から実に四十九年ぶりの出来事であったため、往年の旧制順天中学野球部の先輩も応援に駆けつけた。

 結果は残念ながら一回戦敗退であったが、平成二年七月十八日産経新聞に次のように報道された。

『四十九年ぶり出場、順天高爽やかに散る 今春、女子校から共学校となった。夏の大会は男子校だった戦前の昭和十六年以来、実に四十九年ぶりに出場もちろん野球部員も全員、入ったばかりの一年生だ。』

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