85.松見文平の死
昭和十八年三月二十九日、松見文平は太平洋戦争の真っ只中、肺炎により千葉県市川市の自宅にて満八十二歳の生涯を閉じた。四月十日に順天中学校葬が行われ、友人総代を後の内閣総理大臣鳩山一郎が努めている。 明治九年三月、維新後の日本数学界をリードしてきた精鋭集団である順天求合社に入学した松見文平は、同十三年十二月には早くも順天求合社の助教授となり、同十七年には、第三校長(塾長)となる。 天賦の才能と人格をそなえた松見文平も当時は弱冠二十三才の若さであった。創立者であり、師でもある福田理軒や、二代目塾長福田治軒からの意を受け継いだ決意は想像するに余りある。その後、順天中学校を押しも押されぬ有名校にのしあげ、明治末期には、他校に先んじて明治天皇御真影を拝戴するまでに至る。大正期には、神田の大火、関東大震災の校舎消失に際し、私財をなげうち昼夜を問わず再建に奔走した。今日の順天があるのも彼の並はずれた経営手腕と教育に対する情熱によるところが大きい。 一方、彼は教育界だけでなく、政界でも活躍している。明治二十五年から神田区学務委員となり、同三十年には神田区議会議員に選出され、やがて同三十五年に神田区選出の東京市議会議員に補欠当選し、以後昭和三年まで、実に七回の当選を果たし、二十六年間に渡って市会議員職を勤めた。その間大正十三年には勲六等位、瑞宝章を授けられ、更に府議会副議長や区議会議長等を勤めた。その後も昭和四年から神田区議会議員となり、同九年には神田区教育会名誉会長に推薦される。 ここで昭和十六年度校友会誌「北星」の生徒の文章に校長の事が書かれているので紹介したい。 『五年間を回顧してリーリーとけたたましく鳴り響いていた鐘は廃せられサイレンが登場した。木製ボロ号令台はコンクリートになり校門の門標も木製から大理石の彫刻に出世した。…然し此五年間全然変わらずにあったものがある。あの老校長がそれである。朝早くより登校して朝礼に欠かさず出る校長、今や八十路の道をこえ、猶ほ盛んなる校長、時に金槌を持ち廊下の穴を塞ぎ、又或る時は箒を取りて水溜まりの水をかき出す校長こそ、吾々順天健児が心から尊敬すべき姿なのだ。此の校長を仰ぎて入学しそして五年間は夢の如く過ぎ、…』 松見文平は、幕末から明治大正昭和の激動期を生き抜き、順天求合社から実に五十八年五ヶ月に渡って第三代校長を全うしたのである。 |
前ページ | 次ページ |