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71.二つの校内同居学校

 

 大正二年の神田の大火災後、まとまった土地と新築校舎を得た順天中学校へ、同年七月、校舎借用願が提出された。

 借用願の内容は、順天中学校内の教室を借り受け、同一校舎で商工実務学校を設立することであった。借用願人は、元順天中学校の教員であった渡部館である。彼は、職場であった順天中学校の校舎を借用して、自ら商工実務学校を設立し校長となった。同時に、大正期最初の『校内同居学校』がここに誕生したのである。

 商工実務学校は、大正二年九月、六十名の生徒を集めて意気揚々と開校したのであるが、間もなく多数の欠席者や退学者を出し、僅か四ヶ月後の十二月には閉校状態となり、大正六年六月十五日正式に廃校願が提出され、校内同居学校は消滅してしまった。

 翌大正三年には、第一次世界大戦が勃発し、日本の経済的な不況と財政危機を一挙に吹き飛ばした。アジアを中心に貿易輸出超過となり、日本はおおいに潤って行った。経済の活発化は学校教育にも大きな影響を与え、とくに実業教育機関に人気が集中する社会現象を生んだ。

 私立商工実務学校開校の翌年の大正三年三月、順天中学校に大正期二番目の校内同居学校の申し入れがあった。学校名は「東京商工学校」である。

 この学校は明治三十六年二月夜間部の学校として設立された。当初は、私立郁文館の校舎を借入し、六教室、定員二百名で行なっていたが、経済の活発化と明治四十年の義務教育の延長によって進学率が上昇し、生徒数が増加したことにより順天中学校への申し入れとなったのである。

 東京商工学校は、順天中学校に校内同居することにより、大幅な学則変更を行なうが、移って来た時点ですでに六百五十名もの生徒を抱えていた。その後も順調な経営を行ない、大正九年一月には順天中学校校舎だけでは間に合わず、近隣の東京中学校校舎十教室を借用した。この時すでに学則定員は二千名に膨れ上がり、夜間だけでは到底間に合わず、順天中学に昼も使用出来るよう願出し許可を得たが、さらに増加の一途を辿り学則定員は三千名となった。そして、大正十年十一月には、学則定員七千名の申請を出す巨大な学校に成長し、それまで校舎を間借りしていた東京商工学校本校は分校となり、本校は別に設置するに至った。

 この時代に於ける発展ぶりはまさに驚異的であったと言える。しかし、大正十二年九月一日の関東大震災により順天中学校校舎焼失と共に東京商工学校分校は消滅したのである。

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