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68.神田の大火災@

 

 明治天皇が崩御され、時代は大正を迎えたが、まだ半年程しか経過していない大正二年二月、今度は火災によって校舎を全焼してしまう災害に見舞われた。これが有名な「神田の大火災」である。

 大正二年二月二十日午前一時二十分頃、神田三崎町二丁目五番地(現在の一丁目九番)の救世軍大学植民館寄宿舎付近より出火した。

 この火災についての模様は、東京日日新聞号外に次の様に有る。

 「一方の火の手は三崎町より南方に向ひ中猿楽町より北神保町に燃え広がり順天中学、其他軒を並べたる下宿屋の大建築を嘗め盡して火焔天を焦し北神保町に延焼し見る見るうちに神保町の電車線路に燃え抜けたり」

 三崎町と言えば水道橋近くの外堀の内側にあり、そこから皇居に向かって内堀まで一挙に燃えたのであるから、この火災の大きさが判る。当時の神田神保町は、学校や本屋や下宿屋が非常に多かった。学校が多く有る事によって、学生が学校近くに下宿し、同時に学生が多い事により、神田は日本一の本屋街として有名となっていた。これらの社会的条件によって神田には人口が集中し、更に本屋が集中していたため、折からの強風に煽られながら特に火の回りが速かったのである。

 順天中学でも地方出身の学生を多く抱えており、彼等は皆下宿屋の世話になっていた。そこが燃えたのであるから、学生達はただでさえ苦学していたのに、この災害によって、更に悲惨な目に遭わされたのである。

 先と同様に当時の新聞記事を抜粋する。

 「焼失地が学生区域なると共に又下宿屋区域なるより多数下宿屋の焼失・せし為め学生の焼出されしもの多く火災の真最中寝巻姿で書籍や本籍を引かかへながら右往左往に逃迷ふさま気の毒なりき中にも支那留学生の狼狙の様は見る目も苛し」

 結局鎮火したのは二月二十日の午前八時三十分であった。約六時間に渡って燃え広がった火は、中心に吹き込む強風によって、被害を更に大きいものとしてしまった。資料に拠ると被害状況は、焼失家屋全焼は二千三百以上、焼失坪数は四万二千坪以上であった。

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