65.外国人学校の東京警務学堂
日本は、明治二十七、八年の日清戦争、更に明治三十七、八年の日露戦争に勝利し、世界の注目の的となった。 一方隣国の清は、その頃日本を含めた欧米列強の食い物とされていた。特に義和団以後の清は列強の侵略と国内の動揺に対して、国内改革を強力に押し進める必要性を痛感するに至ったのである。そこで国内改革では先ず教育改革、科挙の廃止、外国留学生の派遣、洋式軍隊の訓練等が行われた。また、立憲国家の建設を目指し、一九〇八年(明治四十一年)に憲法大綱を発布し、一九一六年には国会を開設することを宣言した。 清の進める改革の「外国留学生の派遣」により、明治三十年代末より明治四十年代にかけて、多くの清国学生が日本に留学して来るようになった。この清国留学生の為に設立されたのが、やがて本校内に同居する事になる東京高等警務学堂である。 明治三十九年九月に設立認可された東京高等警務学堂は、日本でも大変珍しい清国留学生の為に警察に関する学術を教える私立学校で、設立の翌年六月には生徒数の増大によって、順天中学内に移転して来た。 明治三十九年の東京府統計の中に東京警務学堂の統計が載っている。それによると次の様になる。 学 科…警察学・法洋学 教 授…二十九名 生徒数…三百十九名 卒業生…二百四十八名 それにしても、これだけ多くの清国留学生がこうして大勢入学、卒業していた事には驚かされる。 やがて、清国では明治四十四年(一九一一)に辛亥革命が起こり、清国から独立した省は十三にも達し、翌四十五年一月には、南京に於いて中華民国が成立し、翌月には宣統帝が退位し清国は滅亡した。東京高等警務学堂がその後どうなったのかは不明である。 明治四十年頃の中猿楽町四番地には、朝は順天中学の生徒が通学し、午後には清国留学生が通学し、そして夜間部には順天求合社の生徒が通学していた。これに影響されてか、順天中学にも清国人留学生が多く在籍していたと言う事実が残っている。将に現代に於ける国際化の走りは、既に明治期より始まり、外国人教師や留学生は神田を中心として多数来日していた事は、全く現代と同じである。 |
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