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64.屋内体操場の新設

 

 当時東京の繁華街である神田に所在していた順天中学は、明治三十二年の中学校令改正によって二千坪の運動場を持たなければならなくなり、この対策には大変苦慮していた。しかし、幸い近隣校である大成中学との連名により、現在の水道橋近くの三崎町三丁目の旧練兵場の跡地を借用することになったのは、54号で既に述べた通りである。 

 明治二十三年三月に陸軍省はこの土地の払い下げを行い、三菱がこの一帯を取得した。その翌年から旧練兵場を市街化する計画の準備を具体的に開始し、その後、三菱の手によって旧練兵場跡地には、木造住宅や店舗等を建築し、一般に貸付けることになった。その結果明治三十五年には約六百戸の貸家が建築された。

 明治三十四年頃の地代は次の様になる。一等地、坪一ヶ月十五銭、二等地、坪一ヶ月十三銭、三等地、坪一ヶ月十一銭、この三崎町の旧練兵場の約二万二千坪中、順天中学と大成中学の連名で借りた土地が何等地だつたかは不明であるが、月の地代を仮に三等地として算出すると次のようになる。

  十一銭×二千坪=二百二十円月額

  二百二十円×十二ケ月=二千六百四十円、一校当たり年間千三百二十円かかる計算となる。

 明治三十五年の順天中学の総収入は八千八百三十円であった事から、地代だけで総収入の十五%を占める事になる。仮に一校で借りると総収入の三十%にもなり、土地の借用は不可能と言う事になる。そこで中学校令改正時点での運動場借用の苦肉の策として、取り敢えず一年間だけ借用した。それはまた既に三崎町に於いても宅地化が進行し、まとまった土地の借用が非常に困難となっていた事も、その理由の一つである。

 やがて明治四十年に至っては中猿楽町四番地内の約五百坪中に、雨天体操場を設ける必要が生じ、二教室を潰して小さな施設を完成させた。ちなみに当時神保町付近に所在していた多くの学校も同様に、晴れの日の体操の時間には、現在の日本武道館近くの千鳥ケ淵までいって行っていた。

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