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63.卒業生の自叙伝

 

 当時の順天中学について知る記述として、卒業生である上野陽一(産業能率大学の前身である日本能率学校の創立者)が執筆し、学校法人産業能率大学出版部から出版した「上野陽一伝」を引用する。

 「一九〇二(明治三十五年)十八歳 ただ免状を手に入れればよいのであるから、別にリッパな中学にはいる必要はない。どこか、あまりヤカマシクない中学はないかと捜した結果、神田の順天中学にはいることになつた。最上級の五年にはいりたいと思ったのだが、どうしても年には編入させてくれない。四年の三学期から入れてやるというので、試験をうけてはいった。

 しかし、忙しいので毎日通学することなどは、思いも及ばぬことである。たとい出席してみても程度が低くてタシにはならない。しかし学期試験だけは受けておかないと免状がもらえない。だから試験だけは、確実に受けた。図画の時間などは、一度も出たことがないので、試験揚ではじめて先生の顔を見たような始末。かれは中学生としては、まことに怠け者であった。

 ……中学のほうはサボリながらドイツ語専修学校だけは休みなく通った。修業年限はヵ年であったが、いつ卒業したのか覚えていない。中学に出席した日は、ずっと専修学校に回り、夜は夜学校で先生をするという忙しさであった。

 一九〇三(明治三十六年)十九歳 かくしてかれは、十九歳の春三月、順天中学の免状をニギルことができた。この中学の記章には北斗七星がついおり、なんでも日本における天文学の先覚者がたてたものだということである。校長は松見文先生といった。あまりヤカマシイことをいわず、怠け者に免状を出してくだすったことを、かれは今でも感謝している……」

 彼もまた本校卒業生の中の一人である。

 この頃、既に中学の記章には北斗七星が使用されている事が明らかにされているが、順天堂塾以来の主要学科であった天文暦学の流れを象徴化したものである。

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