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62.近隣校の東京数学院A

 

 本校と東京数学院(現東京高等学校)とに関係の深い生徒の中に野口英吉がいるが、彼は後に詩人として有名になった野口雨情の事である。彼は当時この両校に在学していた事があった。

 順天求合社中学、学籍簿中に記載されている内容に拠れば、野口英は東京数学院中学第二年級修了によって、明治三十二年四月十一日に順天求合社中学第三年級に編入して来た。しかし同三十二年十二月六日に突然退学している。その後彼は同三十四年東京専門学校(現早稲田大学)に入学している。

 この頃、東京数学院の尋常中学部が東京中学校と名称変更し、中学が発展していく中で、相変わらず東京数学院は数学の学校として存続していた。丁度、順天中学と順天求合社との関係と同様であった。しかし、順天求合社は明治四十一年に遂に数学科を廃止し、土木測量科のみとしてしまったが、東京数学院では相変わらず数学の諸学科を持っていた。それは、当時の数学教育に相当な実力を持っていたからである。

 その裏付けとして、天性の資質を備えた上野清は、数学に関する厖大な数の著書や数多くの論説を発表し、更には外国の数学書を翻訳している。

その後、東京中学校は大正二年に神田西小川町一丁目二番地へ移転し、昭和九年には大森区調布嶺町(現在の大田区鵜の木)に移転し、現在まで東京高等学校としてその歴史と伝統を継承している。

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