61.近隣校の東京数学院@
近隣校として特に本校との関係が深い学校に、上野清によって創設された東京数学院(現東京高等学校)がある。 この東京数学院の前身である上野塾は、明治五年八月に上野西黒門町十一番地に設立され、家塾開業願(現在の学校設立届)は学制発布後の明治六年十二月に提出されている。 上野清は順天求合社で福田理軒、治軒を師匠として学び、当時の学課階級表によれば、一通りの算術を約三ケ月間で修了している。上野清は明治五年の卒業生であり、本学園の第三代校長松見文平が明治十三年卒業である事から、上野清の方が順天求合社の先輩に当り、福田理軒、治軒から見れば兄弟弟子という事になるであろう。 この上野清の名は、福田理軒の著書である明治六年に出版された「筆算入門」に記載されている。「筆算入門」は数学の教科書として執筆されたものであり、その序には、和田正敦から二番目に上野清の名前が記載されている。当時和田正敦は順天求合社社長として、福田理軒、治軒の下にいた人物であり、その近くに名前を連ねているので、かなりの実力者であったと見られる。 この上野清が設立した上野塾は、やがて明治二十三年二月に神田猿楽町二番地に移転し、東京数学院として開校した。当時順天求合社も、三代校長松見文平によって順調に学校経営が成り立つ様になっていた。目と鼻の先に、福田理軒、治軒を師匠とする両氏が、数学塾を構えた事は、誠に奇遇であった。 更に似ている点はこれに止まらず、この両校の学科はやがて尋常中学課程に近づき、東京数学院は明治二十六年十二月、東京の私立中学として第七番目に、順天求合社は明治二十七年二月、第九番目にそれぞれ尋常中学部が設立認可されたのであった。この設立認可に於いても、本校と同じ様な形態をとっている。 |
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