トップページへもどる

60.順天の学籍簿

 順天学園所蔵の学籍簿の中で最も古いのは、明治二十八年の順天求合社学籍簿である。

 明治二十八年以前の学籍については、大正二年の神田の大火災、大正十二年の関東大震災、そして昭和二十年の東京大空襲と三度も校舎が全焼する災害に遭遇し、焼失してしまった。

 しかし、明治二十八年以後の、特に順天求合社に関する学籍簿は、僅か五冊を数えるにしか過ぎないが、一方旧制中学を中心とした公簿類は、数多く現存しており、緊急の際には必ず公簿類だけは運び出すのが決まりであった様だ。学籍簿を守ろうとした当時の職員の努力には頭が下がる思いである。

 現在、途中断片的にしか残っていない公簿類もあるが、昭和二十二年までの旧制中学校については「学籍簿」「いろは名簿」「学年試験成績表」「除籍簿」「上級学校志望者報告書」「人物調査表」等の約百三十巻に上る公簿類が残っている。特に教職員履歴書等は、明治二十六年から昭和十九年迄の物が全部揃っている。恐らく災害が無かったとすれば、この二倍の公簿が存在していたと推測される。

 当時の学校制度に基づく義務教育は、尋常小学校四年の十歳までとされ、更に上の高等小学校二年を卒業すれば、十二歳で中学校に入学出来るように組織されていたが、そのまま高等小学校三、四年と進む者もいた。つまり高等小学校四年生は十四歳に達しているので、この学年を終えれば中学校三年に編入する事も出来たのであり、小学校を終えると更に補習科も二年あり、当時の中等教育機関に編入する生徒の多かった最大の理由となっていた。これは初等教育の確立とは裏腹に中等教育校の立ち遅れによる現象であったと言える。

  本学園の例で見ると、編入生の多かった例として、極端な年は中学一年の入学者九名で、五年後の卒業時には百三十七名という年も有った程である。一方、上級学校に進路を決定させるには、それだけの実力を養わせる必要があり、学年末の試験をかなり厳しくしたため、数多くの落第者を生む結果となった。明治期でもっとも落第生が多かった年には、五年生二百二十三名中、六十一名もの人数を確認できる。

 この様な調子で学籍簿の整理には大変な苦労があった様だ。

160-60.jpg (131774 バイト)

現在も学籍簿等の様々な公簿が残っている

                                                                                                                                          
前ページ 次ページ