59.夜間部の順天求合社
日本の中等教育制度の確立に伴って、順天求合社と順天中学では、教育内容の大きな見直しが必要となった。そのため、昼の部は順天求合社の本科別科を順天中学が吸収し、夜間の部は、順天求合社の測量専修科と数学速成科のみとした。 昭和十二年の同総会名簿に次のようにある。 「順天求合社ハ明治三十三年以後、夜間ノミ測量専修科ヲ設置シ昼間ハ順天中学校ノミトセリ。而シテ明治四十一年測量専修科ヲ土木工学科卜改称、大正七年末ニ至リテ全ク求合社ノ授業ヲ廃止シタリ。而レドモ卒業生名簿ハ火災ニ罹リ現存セルモノハ明治二十八年ヨリ明治四十四年一月迄ノ十七箇年間ノモノノミナリ」 明治三十三年、大陸で義和団事件(北清事変)が起こり、ロシアは清国の満州を事実上占領し、やがて韓国にも手を伸して、次第に日本の脅威にもなりつつあった。同三十七年二月、遂に日露両国は互いに宣戦布告した。 日露戦争は明治三十八年九月ポーツマス条約で日本の勝利で終結するが、先の日清戦争の時と同じように、今回の戦争に於いても順天求合社測量部が活躍した。それは松見文平略歴に、「明治三十七年二月日露戦争ニ当リ陸軍参謀本部ノ内諭ニ基キ特ニ測図手講習会ヲ開キ其ノ講習終了者七十四名ヲシテ陸地測量部臨時測図手ニ拝命セシム」と記されている事からも知られる。 順天求合社の伝統的な教育の三本柱である「数学」「測量」「天文」は学校制度の普及によって、それぞれ独立した学科としても、或は総合した学科としても、学校を成り立たせるだけの生徒の入学を期待できなかった。 皮肉にも順天求合社の諸学科が縮小されいく中、戦争によってこの測量専修科だけは人気を集めていたのであった。 しかし、測量専修科だけがいつも戦争という理由によって、一時的に人気を集めるのではどうしようもない。順天求合社の伝統である測量技術を生かし、新しい学科を作る必要があったのである。そこで明治四十一年からは測量科を拡大させた「土木測量科」を設置する運びとなった。 当時の修学案内には次の様に紹介されている。 「順天求合社測量専修科(神田区猿楽町)順天中学校内にある本舎は、攻玉舎位長い歴史を有しているのであるが、どうも成績が上がらぬ。市会で巾をきかしている松見文平氏が主幹してい、氏の令弟始め大抵順天中学の教師が教授している。全部夜学で速成に測量手を養成しやうといふだから苦学生諸君にはよかろう」 |
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