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51.順天求合社の学科A

 明治二十七年に日清戦争が開始されると、戦地の地域分析が必要となり、順天求合社の御家芸(福田理軒の黒船測量以来の実績による測量学)である測量科の人気は益々高くなっていった。松見文平略歴中の明治二十七年八月の項に、次のように記載されてる。

 「日清戦役ニ当リ陸軍参謀本部ノ内諭ニ基キ、特ニ測図手講習会ヲ開キ其ノ講習終了者三十七名ヲシテ陸地測量部臨時測図手ニ拝命セシム」

 また、陸軍参謀本部と聞くと、二代塾長福田治軒の事を思い出すが、松見文平の時代になっても陸軍参謀局との関係があったに違いない。福田治軒が陸軍参謀局を退職して、既に十六年以上が経過していたが、過去に順天求合社卒業生の多くが陸地測量部に入っている事から、その実績によって、測量手養成機関の役割をはたしたのであろう。

 最後に、陸軍受験科であるが、これもまた学籍簿が現存していないので、その実態については不明な点が多いが、日清戦争も終結した明治二十九年二月に、順天求合社では陸軍受験科として生徒募集広告を出している。これは将に時代を反映した学科であった。

 明治三十年代に入ると学校制度も確立するが、日清戦争の頃では、まだ諸学校令が改正されておらず、時代的要望に答えるべく私学の独自性を生かし、様々な学科を自由に設置出来た。順天求合社では、明治二十六年に五百名以上の生徒が在籍していたのであるが、日清戦争の明治二十七、八年頃には、二百〜三百名台と生徒数が減少している。生徒減少対策もあったのか、この頃には様々な学科が有った。

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