トップページへもどる

40.順天求合社の再出発@

 

 松見文平は明治十七年十一月、順天求合社を継承したものの、若年故に理軒や治軒の様な経験と実績が不足していた上、門下生数も少なく、将来の塾経営には相当苦しい状況が予想された。

 それは、教育制度の確立が、従来の小規模な教育制度から外れる塾の存在を許さない時代を迎えていたからであり、又、移転した美土代町教場(校舎)を見ても、従来の寺小屋式教育からの脱皮は望めない実状であったからである。

 更に、明治十二年九月に出された『教育令』の第三十七条には、「教員ハ男女ノ別ナク年齢十八以上タルベシ」と有ったのが、明治十八年八月の『教育令改正』の第二十五条では「教員ハ男女ノ別ナク年齢十八年以上ニシテ品行端正相当ノ学力アリ文部卿若クハ府知事県令ノ免許状ヲ得タルモノタルヘシ」と改正され、教員は免許状の取得が義務づけられた。これにより、文平は一刻も早く免許状を取得しなければならなくなった。

 松見文平の履歴書を見ると当時の状況が理解出来るので抜粋しよう。

一、 明治十八年三月より同十九年七月迄、東京帝国大学教授理学博士寺尾寿に天文学を学ぶ。
   
一、 明治十九年五月文部省に於ける中学校・師範学校・高等女学校の教員学力検定試験に合格し数学教科の免許状を受領す。
   
一、 明治十九年十二月皇典講究所教授を命ぜられ、同所に於いて数学及び理化学の教授となる。
   
一、 明治二十年九月跡見女子学校数学科教授を嘱託せられ二十四年七月同校の教授を辞す。
   

 文平が師匠と選んだ寺尾寿は、東京天文台の初代台長となった人物である。この時期文平は自己の研鑚と塾の運営で多忙を極めていたが、明治十九年五月に数学教科の免許状を取得したことで、順天求合社も堂々と有資格者の経営する塾となったのである。

160-40.jpg (66652 バイト)

                                                                                                                                          
前ページ 次ページ