39.文平の明玄学舎
松見文平は明治十四年九月、丁度二十歳の時に私塾明玄学舎を創立して独立している。つまり自分の塾を持ちながら順天求合社を継承したのである。 そこで明治十七年十二月、継承した翌月には順天求合社の所在地を中猿楽町四番地から、松見文平の住所であり、明玄学舎のあった美土代町三丁目一番に移転させている。 この理由の一つは、当時専修学校(現在の専修大学)に校舎を貸していたからである。前にも述べたが、この校舎借用期間は明治十五年十一月から同十八年七月まで続いていた。 更にもう一つは、文平が治軒より順天求合社を譲られると同時に、校名を「普通測算学校」と改めているからである。もともとの名称は「順天求合社普通測算学校」を使用していたので、最初の「順天求合社」の箇所を除いたのである。この順天堂塾・順天求合社の順天の二文字は、創立以来五十年間に渡って使用され、多数の有能な卒業生を輩出しており、それら諸先輩達からの圧力を避けるための巧みな方法であった。この普通測算学校の名が使用され始めたのは、明治九年頃で、歴史的に新しく、使用するには好都合であった。 明玄学舎は手続き上廃校としているものの、課目内容も普通測算学校と変わらぬことから、事実上の合併という方法によって塾を継承したのであろう。塾生数は明治十六年に合計二十二名であったが、松見文平が塾長となった明治十七年では、男子六十二名・女子五名の合計六十七名と生徒数が増加している。明玄学舎と普通測算学校の合併によって生徒数が増加したのであろう。 明治十八年十月の「東京留学独案内」増補に、明玄学舎の学校紹介がなされている。この案内書に紹介されている塾数は僅か六十八校に過ぎず、当時東京には何百という学校が存在していた事を考えると、この六十八校中に掲載されている事実は、普通測算学校との合併によって、積極的な生徒募集活動を開始した証拠といえる。 やがて、学校名は普通測算学校から元の順天求合社に改められた。 |
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