32.「東京数学会社」設立
理軒は維新以後、多くの官職をこなして来たが、明治四年文部省を退職した後は、その官職の一切を退いた。それは還暦間近の理軒にとって自分の学問の集大成とも言うべき執筆活動に専念するためであった。 明治六年四月、創立以来三十九年間塾長職にあった理軒は、息子治軒に塾長職を譲った。しかし、治軒はその年の十二月には陸軍省に出仕し、更に時習義塾の教授をも兼務するなど公私ともに多忙を極めたので、実際の塾経営面と教育面では理軒の力が依然として大きく、全く隠居と言うには程遠い多忙な日々を送っていたのは、19・27号で既に触れた。 理軒は明治六年に「筆算通書入門」六冊を著し、明治八年十二月には「筆算通書」五巻を著した。中でも「筆算通書入門」は当時九万部も売れ、ベストセラーとなり、これに比例して、塾の門を叩く生徒の数も飛躍的に増加したのは既に述べた通りである。 理軒は執筆活動以外にも明治十年九月に、我が国最初の学会である「東京数学会社」設立にも尽力し、精力的な活動を展開している。この東京数学会社は、構成員百十四名で、和算家・洋算家のほとんどの著名な学者達が会員となり、日本の数学関係の錚々たる会員を抱え、数学研究の最高機関であった。この学会は、明治十年九月から明治十七年六月まで続き、後に会名を変更し「東京数学物理学会」となり、現在の「日本数学会」に繋がるものである。 東京数学会社雑誌で福田理軒の名前は至る所に見られるが、明治十二年十一月に委員の選挙を投票によって決定している。理軒は第三番目の二十五票を取得していた。学会に於いても理軒の人気は大変なものであり、その実力の程が十分知られよう。福田治軒は父理軒のように会員で無かったが、有志として時々投稿していた。その為冶軒の名前も雑誌にしばしば見られた。 |