31.福田治軒の著書A「測量新式」
治軒は「代微積拾級訳解」を著した同年の明治五年に「測量新式」を執筆している。これは前者の様な訳解でなく、治軒が独自に著したものである。 凡例で次の様に述べている。 「此書ハ公命二應シ来港スル英人ヨリ伝習ヲ得ル處ヲ専一トシ其他測量学ノ諸書二就テ彼邦當今専用スル所ノ陸地測量ノ諸法ヲ詳説ス故二号ケテ測量新式と云」 この書は順天堂塾の御家芸である測量法の伝統を基礎として、英国人イングランドから習得した技をここにまとめ上げたものであり、安政三年(一八五六)黒船測量で全国に知られている理軒執筆の「測量集成」から、維新を経て、新時代と新技術の到来に相応しい名称として「測量新式」と名付けているのである。 やがて治軒は陸軍省に出仕し測量課次長となるや、明治七年四月に実務に於ける測量術を解説する書として「測量必携」を著し、陸軍測量課の測量に携わる人々の為の便宜を計った。 治軒は理軒の活躍していた幕末とは異なり、欧米の学問が積極的に取り入れられ、非常に恵まれた時代に諸師から多くの事を学んでいた。陸軍省に出仕する事になったのもその事からである。 日本国内に於ける維新の矛盾は、明治十年西南戦争の終結によって決着が計られたと言われる。 後に詳しく述べるが、本校も含めた伝統的な教育機関である私塾の多くは、猛烈な勢いで流入する欧米文化と社会変化の波を受け、それは伝統的な文化や学問に強烈な打撃を与え、その存続も許さないまでに冷徹な態度を取った為、学問的消化不良と学問に於ける維新的矛盾の解消は、教育制度の確立によって、決着が計られる事になるのである。 |
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