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12.兄金塘の死

 

 8号で触れたが、安政年間における日本と諸外国を取り巻く社会情勢は、大きく変化しようとしていた。このような状況下の安政五年(一八五八)七月九日、福田金塘は五十二歳で没した。

 福田理軒と兄の金塘によって和算福田派が創設され、浪華を中心として大きな学派に成長していったその最中のことであり、金塘の死は一門に取って大変衝撃的な出来事であった。

 金塘は死の直前まで精力的な活動を続けていた。それは天保八年大塩の乱によって著書「算学速成」の木版一切を焼失してしまっていたが、この死の直前になんとか再出版を果たしたのである。

 また、死の前年には「浪華医師番付表」にも名前を連ねている。この他にも多く現存している「浪華医師番付表」の中に、金塘、理軒の名前は安政年間に入ってから十数枚確認できると言われている。

 資料の「名医大輯」の左下に順天堂塾と近隣校の関係であった適塾の緒方洪庵の名前も見えるが、何故この番付表に和算家である理軒と金塘が顔を出していたのか。表の中央に「暦学 今バシ一 福田金塘」「究理 南本三休 福田理軒」とあり、暦学、易学、究理だけが医学外の科目である。理軒、金塘の名前が中央にあることを見ると行司的役割をはたしたのか、また暦学、易学、究理も医術の一部と考えられていたのか、いずれにしても浪華の名医ばかり名を連ねている所に登場しているのを見ると、和算福田派も相当な実力を有していたことだけは確かである。

 3号で述べたが、兄がいなければ理軒の今日は無く、福田派も存在しなかったはずである。実に存在感の大きな人物だっただけに、理軒の落胆ぶりは相当なものだったであろう。これによって福田派は大きな転換期を迎えることになったのである。

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