トップページへもどる

10.西算速知@

 

 福田理軒は8号で述べた通り、安政年間に前回紹介した「測量集成」と、更に今回の「西算速知」という塾の力を世間に示す重要な二つの書物を執筆したのである。

 この「西算速知」は日本で最初に西洋数学を紹介した書物として、極めて重要な意義を持っている。安政四年(一八五七)二月に官許を得て出版され、内容は中国語に訳されたものを介しての事であったが、時代の要請に答えたものであった。

 序文を引用する。

 『数学のごときも西洋筆算を最も簡便になす者少きは何ぞや。

 近ごろ浪速の福田理軒一書を以て来りて序を請う。ひらきてこれをみれば詳かに西洋筆算の術を訳さるものなり。

 理軒、博学をもって天文地理、測量の術を講究し、傍ら諸国の数学に通じ細かに釈し、未だ数学を聞かざる者と言えども一見して、了をうべし。

 理軒名は泉、字は士銭、塾を順天堂という。理軒はその号なり。

 今求めに応じ之を序す。』

 この序は理軒の求めに応じた公卿のもので、「西算速知」が西洋数学を最も簡潔に紹介したことを賞賛している。

 この「西算速知」が出版された背景には、福田理軒の師匠である小出兼政が、西洋文化受け入れの窓口とも言うべき役割を果たしたからである。小出兼政は蘭語・蘭書に接し、西洋の新知識の多くを吸収していた。理軒はこのような師小出兼政から西洋数学の存在を知り、後に蘭語に熟達していなかった理軒は、鎖国時代の日本に於いてオランダと同じく長崎出島にて交易を行なっていた清国の書を介して、「西算速知」を出版したのであった。

 順天堂塾は世間に「測量集成」の発表によって、測量技術の優秀さと国の危機を知らしめ、「西算速知」の執筆によって日本に洋算を紹介し、測量学、数学の塾としてその名を不動のものにして行ったのである。この西洋数学の紹介を契機に順天堂塾は新たな学問の流れとして洋算を取り入れ、和算塾ではなく数学塾となって行ったのである。

160-10.jpg (134305 バイト)

                                                                                                                                          
前ページ 次ページ