08.黒船来航
激動の幕末において、欧米列強のアジア植民地支配の魔の手は、例外なく極東の小国日本にまで及んだ。安政元年(一八五四)の日米和親条約を皮切りに、安政五年(一八五八)にはついに欧米列強の強大な圧力に屈して不平等条約である日米修好通商条約を締結させられ、続いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結ばざるを得ない状況に陥った。それら条約には神奈川(横浜)、新潟、兵庫(神戸)の開港と江戸、大阪の開市が盛り込まれており、これが世に言う「安政の五ヶ国条約」である。 日本にとって、屈辱的な安政五年の不平等条約締結は、急速な社会変化とは言え、誠に重大な事件であったが、同年、和算福田派にとっても、福田金塘が突然急逝してしまう衝撃的な出来事があった。この安政五年は、日本にとっても福田派にとっても新しい時代を迎える一つの転換機となった。 当時の日本は、諸外国の開国要求が続く最中で、嘉永六年(一八五三)ついにアメリカ東インド艦隊司令長官ぺリーが軍艦四隻を率いて浦賀に現われ、日本に開国を迫った。いわゆる黒船来航である。 黒船の来航は日本にとって大変な驚きであった。日本が鎖国政策を取って二百年以上が経過している間に、欧州では大航海時代を経た造船技術は飛躍的な進歩を遂げ、産業革命以後(一八〇〇年代)欧州に於ける技術の進歩は世界に対する植民地支配を可能にして行った。そして欧米列強国は競ってアジアへとその支配勢力を拡大して行った。やがて東極の小国日本までその膨張した勢いが及び、二百年以上に渡る鎖国政策の付けがまわって来たのであった。 開国前後の落首に次の様にある。 「太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はい(四隻)で夜もねむれず。」 福田理軒は、この社会変化に対応すべく安政年間に、二つの重要な書物の執筆を手掛けた。「測量集成」と「西算速知」である。詳しくは9・10号で述べる事にするが、両著書とも社会全体に問題を投げ掛けた歴史的意味を持った名著である。 |
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